安藤祐介 私設ホームページ

長すぎる人生史

 

【最古の記憶 ?才】
ここは、うす暗くて広い和室。ぼくの生家だ。外は夕暮れ。もうすぐ夜になる。半袖半ズボンのぼくは、ひとり黙々と遊んでる。部屋のなかは箱型になったダンボールであふれてて、ダンボールはガムテープで複雑にくっつけられる。ぼくは自分の体より何倍もおおきな秘密基地をつくってた。たのしくて、夢中になってつくってた。もうすぐできあがるから、そうしたらお母さんにみてもらうんだ!きっとお母さんは「ゆうちゃんすごいね」ってほめてくれるんじゃないかな。たのしみだなぁ!
このたくさんダンボールは、家の近くの工場からもらってきた。前にお母さんと散歩してたらたくさんのダンボールが置いてある工場を見つけたから、ぼくはそれがほしくてほしくて、ひとりでもらいに行こうとも思ったけど勇気がでなかった。母親に頼んでついてきてもらって、やっと「これください!」って言えて、ダンボールを家まで運んでるときはなんともうれしかった。

 

【幼少期】<1984年(昭和59年)0才〜1987年(昭和62年)3才>
 静岡県焼津市生まれ。ぼくは三人兄弟の長男。下には2歳ずつ離れた弟と妹がいて、父親と母親とで5人暮らしをしてた。犬も一匹飼ってた。家のすぐ隣にはおじいちゃんとおばあちゃんと父親の弟(昔はわからなかったけど、精神病)が暮らしてた。
家はちょっと変わった場所にあって、目の前が参道だった。参道は神社まで続いてて、よく家のまえをお参りにくる人たちが通った。参道をはさんだ向かい側におじいちゃんの家があって、おじいちゃんの家に行くときには参道を横切っていった。おばあちゃんが「ここを通るときは神様にお辞儀をするだよ」って教えてくれたから、毎回そうしてた。神社はちょっとした森みたいになってて、小さい頃はよく近所の子と駆けまわって遊んだ。罰あたりだったけど、鳥居をサッカーのゴールに見立ててPKをやったりもした。
 すぐに思い浮かぶのは、おじいちゃんとおばあちゃんのやさしい顔。「ゆ〜うちゃん」と、いつも笑顔を向けてくれていた。おじいちゃんの手は骨ばっこくておおきくて、茶色っぽい色で、よく手をつないで散歩した。おじいちゃんの手は指が4本しかなくて、機械にはさまれて切ったって言ってた。ぼくが「いたくない?」って聞くと、おじちゃんは「ゆうちゃんはやさしい子だね」ってほほえんでた。おじいちゃんは、よく車でぼくとおばあちゃんを連れて海に行ってくれた。おばあちゃんはぼくをおんぶして近所を散歩してくれた。家でいやなことがあると、おじいちゃんとおばあちゃんの家に逃げ込んでた。おじいちゃんとおばあちゃんはよく仏壇の前でお経をあげてた。「なんまいだーなんまーいだー」って、ぼくはわけもわからずマネして一緒に唱えてた。
 弟や妹と遊んだ記憶はあんまりなくて、近所の男の子たちとよく遊んだ。ぼくが生まれた1984年は「ゆうすけ」って名前が流行ってたみたいで、ぼくの家の近所には「ゆうすけ」が3人もいて、名前じゃ誰のことかわからないから、お互い苗字で呼びあってた。その中の「農家のゆうすけ」とは親友みたいに仲良しで、一番たくさん遊んだ。ぼくはしょちゅうその子の家に遊びにいって、その子の家はおおきな農家だったから、遊び場所に困ることはなかった。梨畑の中を走りまわって、ワラの上をジャンプして、ハウスでかくれんぼして、トマトをこっそり食べて、用水路に草船を流して、レンゲ畑で転がりまわって、朝から暗くなるまで遊んだ。ときには家のなかでテレビゲームをして、ぼくはゲームが下手だったから自分がやるのは好きじゃなくて、上手なその子がやるのをじっと見てるのが好きだった。その子とはよく喧嘩もしたけど、「もう絶交だ!」って言いあったすぐ後に電話がきて「さっきの絶交無しな」って仲直りできた。その子がぼくの家に来ることはあまりなくて、ぼくが遊びにいくのがほとんどだった。ぼくは遊びに行く前にその子の家に電話して、「ゆうすけくんいますか?」って聞いてから出かけてた。その子の家は田んぼをはさんだ向こう側にあって、いつも田んぼのあぜ道を通って行った。でも、そのあぜ道にはよくヘビが出て、それがものすごくこわくて、おばあちゃんに頼んで途中までついてきてもらってた。毎回こわくてこわくて、目をつぶって全速力で駆け抜けてた。おばあちゃんは「祐介いけー」って応援してくれてた。田んぼを渡り切ったあと振り返ると、田んぼの向こう側で白い布巾を頭にまいたおばあちゃんが大きく手を振ってくれてた。ぼくは「おばあちゃ〜ん!ありがとう!」って言って、大きく手を振った。
 父親にはあまりいい思い出はなくて、すぐに思い浮かぶのがゲンコツで殴られたこと。その日、ぼくは父親に近所の子たちと一緒にどっかに連れていってもらう予定だった。でも、ぼくは父親が近所の子にやさしくするのをみて嫌な気持ちで「ぼくはいかない!」って意地を張って、父親を困らせた。父親は「お前なに言ってんだ。いくぞ」って言ったけどぼくは動きたくなくて、父さんは一度ぼくを置いてでかけようとしたけど、すこししたら帰ってきて「お前いい加減にしろ!」ってゲンコツで殴った。ぼくは泣いて、ベソかきながら車に乗った。出かけたけど、車のなかはシーンとしてて、全然面白くなかった。
 父親はおじいちゃんと一緒に家の隣の工場で鉄工業をやってた。鉄工場ってなんのことか幼いぼくにはわからなかったけど、「お父さんなにしてるの?」って聞かれたときには「鉄工業です!」って覚えたまんま答えてた。父親は昼12時になるとご飯を食べに家に帰ってくる。父親が工場の前で手を洗ってるのをみると「あ、もうすぐお昼ご飯だ」ってわかった。工場は油くさくて、黒い機械がいっぱいで、うす暗くて、父親はいつもツナギみたいな服を着て仕事してた。ぼくはこそこそ工場にいって、たくさんの機械が置いてあるなかをキョロキョロみて歩くのが好きだった。工場の2階はおじいちゃんの部屋になってて、すごく急な階段を一段ずつよじ登って、おじいちゃんに会いに行った。2階につくとおじいちゃんは昼寝をしてて、ぼくが「おじーちゃん」と言うとゴロっと体をおこして「ゆうちゃんか?」といって笑顔で迎えてくれた。ぼくはそれだけでうれしかった。2階の窓を開けると気持ちいい風がたくさんはいってきて、そこからはいつも遊んでる田んぼがよく見えた。おじいちゃんは「ゆうちゃん落ちるなよ」って、普段はしないちょっと真剣な顔で言ってた。ぼくは「うんわかった」って言って、すこし体をひっこめながら、青い空と緑の畑を見続けた。

 

【幼稚園】<1988年(昭和63年)4才〜1990年(平成2年)6才>
当時は『ライブマン』っていう戦隊もののヒーローが流行ってて、ぼくもみんなも大好きで、よく幼稚園の男の子たちと一緒にごっこ遊びをした。ライブマンごっこがはじまると、ぼくは「はいはいはい!ぼくレッドね!」って真っ先にリーダー色の赤色を選んでた。ぼくは遊ぶときには真っ先に「この指とーまれ!」ってみんなに言って、その指にみんながワーって集まってきてくれてた。うれしかった。
 あるとき、その日は雨で運動場が使えなかったから、みんな幼稚園の廊下で遊んでた。ぼくがいつもみたいに「この指とーまれ!」って言ったら、それを見てた女の先生と女の子たちがワーっと集まってきちゃって、ぼくはその子たちに言ったわけじゃないのに「とーまった!」って囲まれちゃって、ぼくはすごく困って、女の先生はぼくの困った顔をみておかしそうに笑ってて、もうどうしたらいいかわからなくて、ものすごく恥ずかしかった。先生や女の子たちはアハハって笑ってどっかにいっちゃった。いつも遊んでた男の子たちは遠くで見てて、ぼくは心のなかで「もうこの指とまれなんてやーらない!」って思った。
 年長さんになるとぼくがレッドをやることはなくなって、好きな色だった緑レンジャーをやってた。レッドは体が大きくてやんちゃな子がやってて、ぼくは緑色でいいやって思ってた。でも、すこし赤色がうらやましかった。たまに体の大きい子がいないと自分がレッドをやれて、うれしかった。
 運動場ではよくドッジボールをやってた。ぼくはドッジボールをやってる子たちが乱暴で嫌いだったから、いつも輪には入らずに別のとこで遊んでた。でも、その日は先生が家族に渡す用のビデオを撮らなきゃならなかったみたいで、ぼくは無理やり遊んでる風景をとるためにドッジボールのなかにいれられた。子供心にそれがわかって、「なんでやらなきゃいけないの?」って思って、ものすごくイヤだった。ずっとボールから逃げまわってて、とにかく怖くてイヤだった。ビデオを撮ってる先生がこっちをみてる。ドッジボールがもっと嫌いになった。
 絵は好きだった。幼稚園でやってた絵の教室みたいなのに通わせてもらってて、星とかライオンとか葉っぱとか書いて、それが上手だったみたいで、先生とか母親にほめられるのがうれしかった。あと図工みたいなのも好きで、牛乳パックの箱にとってきた貝殻とかを張り付けて金色に色を塗るのがあって、そういうのは楽しかった。
家じゃ幼児教材みたいなのをやってた。訪問販売にきたスーツのお姉さんと母親が玄関でしばらく話してて、呼ばれたから行ってみると母親に「やりたい?」って聞かれたから、「やる」って答えた。いつの間にか本棚みたいに大きな教材が廊下に置かれててびっくりした。「なにこれ?」って。ときどき訪問販売のときのお姉さんが来てくれて、教材に入ってたパズルみたいなのを一緒につくった。パズルが完成するとお姉さんが「お母さんに見せてあげよっか」って言ったから料理をつくってた母親に「できた」って見せにいくと、母親は「すごいね」ってほめてくれた。なんでかわからないけど、母親はそんなにうれしそうじゃなかった。
 幼稚園の年長さんのころ、ぼくは着替えがみんなの中で一番はやかった。とくにズボンを脱ぐのがはやくて、座りながら一気にやるとうまくいくのをぼくは知ってた。参観日に両親がスーツで来てて、帰るときぼくは一番に着替えちゃって、それを見てた父親が苦笑いしながら「お前はやいな」って言ってくれて、ほこらしかったのを覚えてる。もっとはやくやろうって思った。
 幼稚園で先生に怒られたことが一回だけある。その日は雨が降ってた。先生がみんなの前でマジメな話をしてて、ぼくはいつもはちゃんと聞くんだけど、隣の男の子がぼくにたくさん話かけてきて(その子はいつも先生に怒られてた)、それを見た先生が「先生がしゃべってるでしょ!静かにしなさい!」ってその子とぼくをにらんで、はじめて先生に怒られた!こわい!と思ってずっと心臓がバクバク言ってた。わるいことはしちゃいけないんだって思った。

 

【小学生 低学年】<1991年(平成3年)7才〜1993年(平成5年)9才>
 小学校1年生。はじめての教室。はじめての人たち。ぼくはすごく緊張してて、誰とも喋れずにじっと席に座ってた。先生がやってきてちょっと話をして、ひとりひとり立って自己紹介することになった。先生は「じゃあ席が前の人からね、安藤くん」って言って、ぼくはイヤだったけど、緊張しながらガタっと席を立った。
「安藤祐介です」そう喋ろうとしたんだけど、声がとまっちゃって、喉が押しつぶされてるみたいだし、腹筋がギューッと締め付けられてるみたいで、全然声がでなかった。無理やり声をひねりだしたけど、「あ!」でとまっちゃって、困った!困った!どうしよう!?息を吐くことも吸うこともできなくて、ものすごく息苦しくて、どうしよう?みんなが見てるのに…どうしようって困って、このままじゃマズいから力まかせに声をだしたら「あああああああんどうです!よよよよよろしくお願いします!」ってなっちゃって、みんなに大笑いされた。ものすごく、死ぬほど恥ずかしかった。それからぼくは「ああああんどうおはよう!」ってクラスメイトからからかわれるようになった。みんなは笑顔で言ってたけど、ぼくはすごくイヤだった。恥ずかしかった。なんでぼくばっかこんなことになるのか、とにかくイヤだった。
 国語の授業が大嫌いだった。本読みの時間があったから。みんなで声を出して読むときはみんな一緒だったからちゃんと読めたけど、段落から段落まで1人1人読むやつがたまらなく苦痛だった。自分の声がみんなに注目される。ちゃんと言わないとまた笑われる。しっかり読まなきゃ先生にも変に思われる。そんなのイヤだった。本読みの順番がせまってくると、イヤでイヤで学校をずる休みしたこともあった。でも、国語の授業は毎日のようにある。逃げきれなくて授業にでると「この前休んだ安藤くんから読んでね」ってこともあって「あぁ…神様はいないんだ」って思った。
 小学校3先生のとき、自分が上手に喋れないのがイヤで、笑われるのがイヤで、担任の先生に相談したことがあった。そうしたら毎日やってる『朝の会の3分間スピーチ』で安藤くんの番のとき、みんなにその気持ちを言おうよってことになった。ものすごくイヤだったけど、このまま笑われ続けるのはもっとイヤだったから、勇気をだして、どもりながらもみんなの前で自分の気持ちを発表した。
 「ぼぼぼぼぼぼぼくは、ううううまくしゃべれないけど、わわわわらわないでください!」って言えた。喋りながら涙が止まらなくて、言ったあともその場でずっとシクシク泣いてた。みんなシーンとしちゃって変な雰囲気になったけど、先生が拍手してくれて、そうしたらみんなも拍手してくれて、言ってよかったって思った。
朝の会のあと、ぼくのことをよくからかってた背の高い男の子がやってきて、「安藤わるいっけな、お前そんなイヤだったなら言えよ!」って背中をバシって叩いてくれて、まだシクシク泣いてた。(このドモリが吃音症っていう失語症の一種だとわかるのは、まだずっと先。大学4年生のころ。)
自分がみんなと違う。おかしいってことには気づいてたから、母親に相談したこともあった。それでどこかの小学校でやってる「言葉の教室」っていうのに通うことになった。言葉の教室じゃ先生と一緒にパズルをやったりオセロをしたりトランポリンしたりして遊んで、言葉が変だったから通ってるって思いはなかった。ただ通ってて、あんまり通っている意味もわからなくなっちゃって、途中で「もういいにする」って行くのをやめた。
ほかにも母親は、ぼくのドモリを治すために催眠療法にも連れてってくれた。ぼくはおじいさんみたいな先生に暗い部屋に連れていかれて、ソファーみたいなイスに座らされた。ときどきライトがパッとついたり、先生に「右手があたたかい」「左手があたたかい」って言われたらほんとうにあたたかいような気がして、「ほーーーー」って息を長く吐くように言われたからその通りにやったりしてた。上手にできてるか心配だった。よくわからないうちに眠くなって、気づいたら一時間くらいたってた。終わると先生が母親に「よく効いてますから…」みたいなことを言ってて、母親はお金を払ってた。ぼくは心配になって「お金たかい?」って聞いたら「一万円くらい」って母親は答えて、申し訳ないと思った。何回か行かせてもらって、お風呂のなかで喋る練習をしなさいって先生に言われてたからしばらく続けてたけど、父親には「お前風呂でなにやってるだ!」って言われたり、学校じゃ相変わらず喋れないままだったし、ぼくに高いお金を払ってくれてるのが申し訳なくて、自分からやめるって言った。
 父親はぼくのドモリをきくと「男はそんなんじゃだめだ!」「お前ちゃんと喋れ!」って怒ったから、父親の前で喋るのはすごく嫌だった。怒られないように、喋れそうな言葉だけ喋ってた。父親の前ではちゃんとした子供でいないとダメだった。国語の授業の前の日、ぼくがうまく喋れますようにって神様に祈ってるのを父親に見られたときは、「お前、そんな弱いことでどうするだ!」って怒鳴られて、悲しくて涙がこぼれてきた。頭の中が真っ白になった。こんなぼくはダメだって思った。いつだったか忘れたけど、母さんは洗濯機の前でひとりで泣いてて「祐介ごめんね」って言って、ぼくは「お母さんのせいじゃないよ」って言いながらお母さんの背中をさすってたのを覚えてる。母の日になると、少し遠くの無人販売の花屋さんまで歩いていって、100円を箱に入れてカーネーションを買って渡した。
 父親は怖い。ぼくが夜にトイレに起きたりすると「昨日お前がうるさくて寝れなかったわ」っていうから、トイレは我慢した。どうしても我慢できない日は、ほんとうにこっそり、こっそり、ミシミシ音を立てないように廊下を歩いて、おっしこをして、水は流さずに布団に戻った。怒られるのがイヤだった。次の日に父親に何も言われないと、心から「よかった」って思えた。
 みんなが自転車に乗り始めたころ、ぼくもみんなより少し遅れて自転車に乗れるようになった。黒っぽい、電車の絵がついた自転車を買ってもらった。でも学校の先生が「危ないから家で自転車に乗らないように」って言われてたから、ぼくはそれを守って三輪車に乗ってた。あるとき、ぼくは3人の友達と少し遠くの公園まで出かけることになって、集合場所にいったらぼくだけ三輪車で、2人は自転車を持ってきてた。学校の先生がダメって言ったじゃんって言ったら、「そんなの大丈夫だよ」って言って、どんどん自転車で行っちゃった。ぼくは追いつきたくてすごくたくさん漕いだけど三輪車は全然すすまなくて、途中で走っていこうとしたけど三輪車が無くなったらいやだからそれもできなくて、結局途中の道であきらめた。ひとりで大泣きして、みんなずるよって思って、家に帰った。
 あるとき引っ越しをして、住所が変わった。引っ越しってなんとなくわくわくして、「家が変わるんだー」ってすこし楽しみに思ってた。母親に連れられて、いろいろな家を見にまわった。学校が変わるかもしれなくて、それについて母親に聞かれたから「学校はそのままがいい」って言った。同じ学区内の引っ越しになって、すこし安心した。引っ越しをしてから、仲が良かった「農家のゆうすけ」とは遊ばなくなった。はじめは通ったりしてたけど、なんとなく心が離れてしまって、学校であっても「おぉ久しぶり」って声をかける程度の関係になった。気恥かしくて、よそよそしい感じがした。
 クラスに仲良しの友達がいて、ミっちゃんっていう笑顔がよく似合う男の子だった。いつも半ズボンで、足が速くて、絵も上手だった。その子とは休み時間のたびに遊んで、ミっちゃんはよく仮面ライダーとかのキャラクターを書いてくれてた。「これがアンちゃんね」っていって、ぼくのキャラクターも書いてくれて、○の中に線で目と口とかが書いてある(いまのあんぽんまんのモデル)、決してかっこよくない奴だったけど、ぼくはミっちゃんが書いてくれたから気に入ってた。2学期の最後、一緒に家まで帰ってて、いつも別れる交差点のところでぼくは「ミっちゃんまた遊ぼうねー!」って言った。そうしたら、ミっちゃんはいつも笑顔で手を振ってくれるのに、その日だけは背中を向けて走っていっちゃった。「あれ?どうしたんだろう?」って思ったけど、ぼくはそのまま家に帰って、ミっちゃんを見たのはそれが最後だった。三学期学校に行くと、先生がミっちゃんは転校しましたって言ってて、「え?どうして???」って思ってぼうぜんとした。ミっちゃんとあんなに仲が良かったのに、ちゃんと挨拶もしてくれなくて、でもミっちゃんは言いたくなかったのかなって思って、さみしい気持ちでいっぱいだった。それからひとりきりの帰り道が、すごくさみしくなった。

 

【小学校 高学年】<1994年(平成6年)10才〜1996年(平成8年)12才>
 クラス替えのたびにイヤでイヤでたまらなかった。自分のことを知らない人たちの前で自分の名前を言わなきゃいけないのがたまらなく苦痛だった。大きな声で言うとおかしいのがわかっちゃうから、下を向きながら小さい声でぼそぼそっと速く喋るクセがついた。
 小学校5年生のとき、小学校のなかで一番こわいって噂の女の先生が担任になった。もう定年間近の、おばさんってよりもおばあさんに近い先生で、みんなから恐れられてた。授業中にふざけてる子を立たせて叱りつけて「お前なんだ!?言いたいことがあるなら言ってみろ!もっとにらんでみろ!」って言ったり、ぼくもすごく怖くておびえながら過ごしてた。
 ぼくは昔から牛乳が嫌いで、5年生まで給食で出た牛乳をいつも残してた。でも、その先生は残すのを許してくれなくて、全部飲みきるまで席を立たせてくれなかった。みんなが給食を食べ終わっても、昼休みの時間になっても、ずっと席に座って牛乳とにらめっこしてた。ぼく以外にもそんな子が5人くらいいて、恥ずかしかったし、給食の時間が毎回苦痛だった。でも、それのおかげで5年生が半分すぎたころには牛乳嫌いがなおってた。ちゃんと飲めるようになってて、昼休みにみんなと普通に遊べるのがうれしかった。
 5年生も終わりに近づいてきて、文集みたいなのを書く時期になった。「たのしかった思い出はなんですか」「好きな授業はなんですか」そんな質問が書いてある紙が全員に配られて、授業中に書いた。そのなかには「一番つらかったことはなんですか?」って質問があって、ぼくは先生に叱られたことが一番つらかったからそれを書こうとしたけど、そんなこと書いたら先生怒るかな?って思って書くのをためらってて、みんなが何を書いてるか気になってキョロキョロしてたら、先生が「お前ら、相談なんかしないで自分の気持ちをちゃんと書くんだよ!」って怒ってて、ぼくは自分が言われたのかなって思って、正直に『先生におこられてつらかった』って書いた。
 文集が完成してみんなに配られたとき、ぼくは頭が真っ白になった。みんなは一番つらかった思い出のところに「マラソン大会」って書いてた。どの子のページをみてもマラソン大会で、みんな相談したんじゃないの?って思って、先生におこられたことって書いてたのは、結局ぼくとあと1人だけだった。先生に申し訳なくて恥ずかしくて、もう先生の顔が見れなくて、ひたすら下を向いてページをめくってたら、最後の白紙のページに鉛筆でサラサラと手書きのメッセージが書いてあった。それは先生からの言葉だった。「どれほどかわいがったかわからないのに、先生に怒られたことがつらかったなんて、ごねんめ」。
 翌年、先生は他界された。ぼくらが最後の生徒だった。みんなで学校の服を着て授業の時間にお葬式に行って、お葬式の会場じゃ「罰があたったたんだよ」って先生によく怒られてた悪い子がヘラヘラしながら言ってたけど、その子は目が赤かった。ぼくは「先生死んじゃったんだ、もういないんだ」って思って、先生に怒られたのがつらかったって書いてごめんなさいって言えなくて、後悔した。
 ぼくは先生の家に蚕(カイコ)っていうイモムシ?のエサになる『桑の葉』を取りに行ったのを思い出した。夏休みのとき、ぼくは生物係で、蚕を育てる当番だった。蚕のエサの桑の葉がなくなっちゃって、どうしたらいいかわからなくて、先生に助けてもらおうと思った。先生の家はぼくの家の近所だったから場所は知ってて、勇気を出してもらいにいった。先生の家は庭から玄関まで結構距離があって、ドキドキしながら歩いていって、玄関の前に立って「せせせせせ先生!クワの葉っぱをもらいにきました!」って勇気を出して言った。先生が奥からゆっくりでてきてくれて、学校みたいに怖くなくて、笑いながら言った。「どこかの軍人さんが来たかと思ったよ」先生は桑の葉をたくさん切ってもたせてくれた。
蚕を気持ち悪いっていう子もいたけど、ぼくはイモムシは好きだったし、かわいらしくて好きだった。あるとき飼ってた蚕がいなくなってて、どこにいったんだろうって探したけど、そうしたらガみたいな白いモスラが飛んでて、それが成長した蚕なんだよって先生が教えてくれた。先生は目を細めながらぼくにほほえみかけてくれてた。
小学校6年生のときのクラスが一番たのしかった。ぼくはいい感じの子たちがいるグループに入れてて、たくさん友達がいて、毎日たのしく遊んでた。でもあるとき、そのグループのリーダー格の子2人が喧嘩しちゃって、グループが分裂した。ぼくはそんなことになったグループを抜けたくて、思い切って「ぼくはこのグループに不満をもっている」って書いた紙を1人のリーダーの子に渡した。そうしたら取り巻きの子たちは「安藤が裏切ったー!」って紙をもって走り回って、ぼくはそれが恥ずかしくて、でもリーダーは「安藤が決めたなら仕方ない」って言ってくれて、無事抜けられた。新しいグループに入れて、そのグループは女の子たちとも仲が良くて、ぼくは抜けてよかったって思ってた。元々いたグループの子たちの視線は冷たかったけど、なんとか卒業までこぎつけた。

 

【中学生】<1997年(平成9年)13才〜1999年(平成11年)15才>
 中学生は思い出したくない。つらい思い出ばかり思い浮かぶ。1年生のクラスには小学校から一緒だった子も少しはいたけど、あんまり仲のいい子たちじゃなくて、ほとんどよその学校から来た子たちだった。また一から人間関係をつくり直さなきゃいけなくて、相変わらずのドモリで人と喋るのが怖くて、なるべく喋らなくていいように、仕方なく喋らなきゃならないときはボソボソって小さい声でしゃべってなんとか毎日やりすごしてた。人目につかないように、こっそり過ごしてた。思春期ってこともあったのかな、とくに女の子たちにかっこわるい自分を見られたくなくて、よく声をかけてくれた女の子がいたんだけど、わざとそっけない態度をとってイラつかせて、最後には「お前なに無視してんだよ!」って言われて、それ以来話かけてもらえなくなった。
 ある雨の日、ぼくは渡り廊下を走ってた。なるべく濡れないように猛ダッシュしてたら背中からすっころんで、肋骨を1本折った。痛みで動けなくて寝ころんだままウーウー唸ってたら、同じクラスのいじめっこが面白がって背中にドスンって乗ってきた。「何寝てんだ?」って笑って、ぼくは痛みで息ができなくて返事なんてできなくて、「お前まじなの?」って言って、うん、まじだった。結局次の授業に遅刻した。「安藤なに遅れてんだー!」って先生に怒られて、そのまま授業を受けたけど痛くて痛くてどうしようもなくて、でも先生に手をあげて痛いって言う勇気もなかったぼくはずっと胸を押さえて我慢してた。目線で先生に「気づいてー!」って念じてたけど気づかれなくて、授業がおわるのをひたすら待ってた。教室から出るときに先生がイライラしながら「安藤、お前調子わるいなら保健室いけ!」って言って、ぼくは半泣きで保健室にいった。
 2年生になると学年でもわるい人たちの吹き溜まりみたいなクラスになっちゃって、本気で先生たちをうらんだ。案の定いじめられて、休み時間のたびに殴られたりプロレスの絞め技の練習台になってた。授業中に学校で禁止されてたカードゲームをぼくの椅子の下にばらまかれたり、汚い黒板消しで頭を叩かれて「白髪だ」って笑われたり、悔しいわ恥ずかしいわムカつくわ、死にたい気分だった。ある時、ついに我慢できなくなっていじめっ子に殴りかかった。ぼくはその子の首にしがみついて首を本気で絞めて、このまま殺しちゃうんじゃないかって自分でも心配になった。いじめっ子は「ギブギブ!わかったから!」って言うからやめたら、その後ボコボコになった。
 そのあともいじめは続いたから、学校から帰ったあと、ついに我慢できなくて母親に言った。サラっと言おうとしたけど、言い始めたら涙はとめどなくあふれてきて、親の前で泣いたのは本当に久しぶりで、情けないしかっこわるいし母親に申し訳ないし、母親も涙を流しながら「うん、うん」って聞いてくれて、そのまま担任の先生に電話をしてくれた。
翌日からいじめっ子は学校に来なくなった。担任の先生が自宅謹慎にしてくれたみたいで、ぼくに「大丈夫だったか?」ってこっそり声をかけてくれた。なんだか自分がわるいことをしたみたいで、クラスのほかのいじめっ子たちは「安藤、先生にチクった?」って聞きてきて、ぼくは「しらない」って嘘をついてた。しばらくしていじめっ子は登校してきたけど、それからぼくへのいじめは軽くなった。とにかく早くクラス替えになることを願いながら毎日過ごしてた。気がやすまるときはなかった。
 3年生、ましなクラスに入れた。いじめっ子はいなくて、特別仲のいい子もいなかったけど、同じいじめられっ子同士で集まってやりすごしてた。高校の進路を選ばなきゃいけない時期になって、ぼくは小さいころ秘密基地とかつくってて、図工とか技術が好きだったから建築士になりたくて、工業高校に見学にいった。でも、その高校は市内でもわるい人が多い高校って聞いてて、見学にいったときも通りかかったこわそうな先輩に「うぜーんだよ」「んだよ、邪魔だよ」って言われたこともすごくイヤで、もう建築士はやめようと思った。とりあえずみんなと同じように普通の高校に行くことに決めて、ぼくは勉強ができなかったから中の下くらいの高校を選んだ。でも点数が足りなくて先生には「私立のほうがいいんじゃないか?」って言われてたけど、お金が高いし親には迷惑かけたくなかったから、なんとか公立に合格しようと思った。塾にも通ったけど、やっぱり成績は低いままだった。でも受験が近づいてきた矢先、志望してた高校の先生が痴漢をしたってニュースが流れて、その高校は一気に人気が下がって、結局定員割れになった。ぼくは神様に「ありがとう!」って感謝して、普通なら不合格になる点数だったけど合格した。

 

【高校生】<2000年(平成12年)16才〜2002年(平成14年)18才>
 小学校・中学校までは、まだぼくのことを知ってる子がいたけど、高校になると知り合いはほとんどいなかった。しかも同じクラスになれる確率なんてとっても低くて、案の定ぼくの知り合いはクラスに1人しかいなかった。最悪。また自己紹介をしなきゃならない。自己紹介は完全にトラウマになってて、自分の順番になると下を向いて誰にも聞こえないような小声で喋ってすぐ席に座った。そんな子に友達ができるわけもなく、はじめの一ヶ月くらいは1人でご飯を食べてた。まわりじゃグループができあがってて、ぼくはクラスのなかで1人孤立してた。給食の時間になるといつも同じアーティストの曲が流れてて、それを聞くのがたまらなく苦痛で、そのアーティストのことも嫌いになった。昼休みはいく場所がなくて、学校の誰も入らないような個室のトイレのなかに隠れながら時間をつぶして、だれかが入ってくるたびビクってなって、見つからないように声をひそめてた。トイレが使われてたときは自分の席に突っ伏して寝たフリをしてた。しっかり起きてたからみんなの話し声や笑い声が聞こえてきて、ひたすらイヤな気分だった。
 昼休みが来るたび苦痛だった。また1人で食べないといけない。みんながぼくを見て笑ってる気がした。そんなとき、突然クラスの男の子が「一緒に食べていい?」ってお弁当を持ってぼくの席まで来てくれた。その子は頬が少し赤く腫れてて、「どうしたの?」って聞いたら「お前と同じ中学校から来たやつがお前のこと無視しようって言ってたもんで、ムカついて殴ったらこうなった」って、少し笑いながら言った。それを聞いたら胸が苦しくて、いっぱいになって、悲しい気持や申し訳ない気持や渦巻いて、ただ一言「ありがとう」って言った。それから、その子と友達になってご飯を一緒に食べることになり、その子と喧嘩した子も「安藤ごめん」って謝って3人グループになって、ぼくは救われてた。
 勉強はできなかった。国語はそもそも苦手意識が強くてやる気がなかったし、まともにできる科目なんてほとんどなかった。運動もできるわけじゃないから、いわゆるダメ生徒だった。1年生の三者面談で、母親の前で先生に「安藤、もう少しなんとかならないか?」って言われて、すごく恥ずかしかった。母親も申し訳なさそうにしてて、自分がすごくわるいことをしてるみたいに思って辛かった。遊んでるだけみたいに見えてた不良っぽい子たちが自分より勉強できるのが、悔しい気持もあった。それがきっかけで、少し勉強をしてみることにした。とりあえず、科目のなかでも少しはましな点数だった数学からなんとかしようと思って勉強した。授業でやった公式とかを丸暗記して、何度も何度も復習してテストにのぞんだ。そうしたら、授業でやった公式が数字だけ変えてマルマルテストになってて「え?これ解いちゃっていいの?!」すらすらできて、これ結構いい点数なんじゃないかなぁって思ってたら、案の定高得点だった。テストを返すときに先生が「今回点数がよかったのは○○と○○と安藤だな」って言ってくれて、たまらなくうれしかった。はじめて自分が認められたような気がして、もっと勉強をしてみようって思って、他の教科も勉強しはじめた。そうしたらどんどん成績が良くなって、やればやっただけ点数があがるのが面白くて、学校が終わるとすぐ家に帰って(文化部にはいってたけど、実質帰宅部だった)部屋に閉じこもって勉強した。夕飯を食べ終わったらまた勉強をして、寝る前もベッドの中で勉強した。1年生の最後の期末テストにはぼくの点数は軒並み最高点に近くて、気づいたらクラスで一番になってた。
 テストの結果は掲示板に張り出されたから、みんなにぼくが勉強できる奴ってのが知れ渡って、エッヘンって感じで、なんだかダメな自分がダメじゃなくなった気がしたし、自分の名前を言わなくてもみんなにぼくの名前をわかってもらえて、一石二鳥だった。担任の先生にも「安藤、お前やったな!」って言われて、もう完全に勉強のトリコだった。
 2年生になって自分をもっと変えたくて、オデコが広のがイヤでずっと前髪をおろして隠してたけど、バッサリ切った。ツンツンしたオールバックみたいにして、なんだか前より生きることに自信がついた。ニワトリみたいな頭だったから、あんまりちゃんとした高校生らしくなくて、怖い先生に「そんな頭の人をほしい会社があるかね?」って言われて、「それだけの成績とってますから」ってムカついたから言った。言ったときは心臓がはりさけそうに緊張した。勉強はますますがんばった。授業が終わるとすぐ先生のところにって、わからないところを聞いた。迷惑そうな顔をする先生と、熱心に教えてくれる先生がいた。
 女の子は苦手だった。話をするのが恥ずかしくて、自分が吃音ってのがわかっちゃうのがイヤで、勉強でわからないことを聞いてきてくれる子がいたけど「しらない」の一点張りで通して、ひたすらかかわりを避けてた。しまいに無視するようにもなって、女子から嫌われた。男の子には「安藤どうしたの?」って不思議に思われてたけど、ぼくにもよくわからなかった。
 高校3年生になると、進路をかためないといけない。担任の先生は推薦入学の話とかをしてくれたけど、普通の大学にいったら普通のサラリーマンなる。喋れないぼくなんかが営業をしたり電話番をしたりするのができるわけないと思ってたから断った。なるべく人と喋らなくていいように、かかわらなくていいように、そんな仕事を探した。
一番はじめに思い浮かんだのは、山にこもって陶芸家になることだった。でも、もうからなさそうだし、実際には無理そうだったからやめた。次に思い浮かんだのは、動物相手の仕事だった。犬を飼ってたし、動物は素直で好きだった。でも、動物を相手にしてても、動物の買主さんとは話をしないといけない。まぁ、すこしだけなら誰かに頼めばいいし、なんとかなるかなって考えた。職業辞典をめくって動物関係の仕事を探してたら、犬の訓練士ってのを見つけて、これがいいって決めた。さっそく訓練学校を調べると、県内の山奥にそういう場所があるのがわかったから、行ってみることにした。でもぼくは根性無しだったから1人でいく勇気がなくて、親に頼み込んでついてきてもらった。バスで何時間も山の中を走って、なんの建物もない山奥のバス停で降りて、しばらく歩くとその建物はあった。訓練学校っていってたけど、実際にはただの民家。近づくと、ガウガウ!バウバウ!って凶暴そうな犬の声がたくさん聞こえてて、びびった。「おっかねー!」と思ってたら、民家のなかからパッとしない先生が出てきた。いろいろ案内してくれたけど、ぼくはこの時点で「ここはないな」って思ってた。山奥だし、犬はおっかないやつばっかだし(警察犬を育ててた)、汚いし、大変そうだし、先生はいまいちだし、もうやる気が失せた。やーめた。
 つぎに候補になったのは犬の美容師、トリマーだった。これも飼い主さんと話をしないといけないけど、犬とかかわってる時間のほうが断然長いし、なんだか楽そうで楽しそうでいいなと思った。うちの犬いきつけの美容院の人に頼んで、しばらくボランティアさせてもらえることになった。高校が休みの日に自転車で行って、犬のシャンプーを手伝ったりドライヤーで毛を乾かしたり、掃き掃除をしたりして、結構楽しかった。それを数か月続けてたら、店長さんに「長い休みに入ったらバイト代だすからね」とか言われてうれしくて、そんな気持ちをポッキリ折ったのは、白いマルチーズだった。店長さんがマルチーズをカットするのを手伝ってて、ぼくは不用意にそいつのシッポを触ってしまい、ガブリ!。手を噛まれて、しばらくそいつは「ヴウーーー!」って噛んだまま放してくれなくて、痛みと驚きでまったく動けなかくて、やっと放してくれたときには手は血だらけで、それを見たら目の前が真っ白になって失神した。床にぶっ倒れて、お姉さんたちに休憩室に運んでもらった。そのまま今日の仕事はいいにしてもらって、帰宅。もう恥ずかしくて申し訳なくてかっこわるくて、二度とその美容院には顔を出せなかった。トリマーはやめた。
 人とかかわらない職業、ほかには農家とか工場とかあったけど、もう無理だってうすうす勘付いてた。どんな仕事だって、どうしようもなく誰かとかかわらなきゃいけない。ずっと逃げてても、もうどうしようもない。それならいっそ、人とたくさんかかわらざるを得ない仕事につけば、この吃音も治るんじゃないか?!って考えた。ぼくは人が苦手だったけど、喋るのが怖かったからイヤなだけで、本当はやさしい心がある気がした。そういえば中学校のボランティア活動で老人ホームに行ったのを思い出してた。なんだ、自分でやさしいじゃん。実は向いてるのかも…って思って、どうせ生きるなら人のためになる仕事をしたいよなとか考えて、医療福祉の職業を探すことにした。
 ペラペラ職業辞典をめくってたら、レントゲン技師ってのが目についた。「お、これならあんまり人とかかわらなくいい!」とかまた思っちゃって、臨床検査技師とかもずっと顕微鏡見てればいいのかな〜とか魅力的に思えたけど、また人とかかわらなくて済む仕事になっちゃうし、大学の偏差値も高くて手が出なかったからやめた。つぎは看護士。これはマルチーズの一件で血がだめってことがわかったからダメ。つぎに介護士。給料がひくいしあんまりかっこいいイメージがないからヤメ。なかなかいいのがない…そんなとき目についたのがリハビリテーションをする職業、作業療法士だった。なにやら木工をしたり陶芸をしたり手工芸をしてリハビリをするとか書いてある。「おお、なにこれ!すげー!」ぼくにもってこいの職業だった!ものをつくるのは普通に好きだし、それが誰かのためになる仕事があるなんてすごい!しかもリハビリってなんだかかっこいい。これしかないと思った。
 作業療法士の隣のページには理学療法士ってのがあって、こっちは運動とかトレーニングでリハビリをするって書いてある。運動は苦手だったけど、作業療法士より2万円くらい給料が高かったから、結局作業療法士はやめて理学療法士を目指すことに決めた。偏差値はぼくには高めの学校が多かったけど、なんとか手が届きそうだった。
 あとは勉強。理学療法士は作業療法士より人気があるみたいで、すこし倍率も高かった。ぼくは学校じゃ成績がよかったけど、高校自体が中の下だったから、高校でできる奴も全国じゃミノムシみたいな点数だった。そんなぼくが必死になっても合格できるわけはなく、受験した大学は軒並み不合格。一丁前にプライドは高かったから専門学校は意地をはって受験しなかった。お金がかかるからいきたくなかった私立さえ不合格で、もう死のうって思った。自分はだめなやつなんだ。言葉もまともに喋れないし、不合格ばっかりで、もうどうしようもないわって。
 そんなとき、急なお知らせみたいな感じで大学の受験案内がきた。県外だったけど、新しくできる大学で、入学すればそこの一期生になれる。しかも、ありがたいことによその学校の理学療法学科よりも偏差値が低くて、「これならいける!」って最後の望みをかけて受験した。
 結果は不合格。はは、ほんとうに死のうって思った。浪人なんていやだったし、もう高校卒業で就職する?道路で旗振る?無理無理!体力ないのにできるわけない!炎天下のなかで仕事してたら本当に死んでしまう。でも、ぼくには天使がついてた。不合格通知とは別に、もう一枚紙が入ってて、そこに理学療法学科は不合格ですが、作業療法学科であれば入学できますって書いてあって、もうワラにもすがるおもいで「おれはここにいく!理学はもうやめた!おれは作業療法士になる!合格だー!」って飛び跳ねながら部屋で叫びまくってた。親があきれてた。

 

【大学生】<2003年(平成15年)19才〜2006年(平成18年)22才>
 静岡県をはなれ、県外で1人暮らしがはじまった。はじめての1人暮らし。また自己紹介。この頃には自己紹介をなんとかやり過ごす技を身に着けてたけど、相変わらず人が怖くて友達はいなかった。学生アパートみたいなところに住んでたけど、ぼくは1人孤立してた。みんなで集まって遊ぶときに声をかけてくれたりもしたけど、ぼくは断ってた。みんなが出かけるのをカーテンの隙間から見てて、その姿がみんなに見つかって、情けなくて、はやくどっかいってほしくて、そんな情けない自分がどうしようもなく嫌いだった。風邪をひいたときも誰にも「助けて」って言えなくて、そもそも話ができる人がいなくて、ものすごい勇気を出して隣りの部屋のチャイムを鳴らしてみたけど留守で、ひとりで薬局にいって風邪薬をもらって、その薬が風邪を悪化させて、死に物狂いで文句を言いにいって、その姿を小さい子どもに見られて恥ずかしくて、ポカリを山ほど買って帰って、ガブ飲みして寝た。そのあとは、実際に死ぬかと思った。3日くらい寝たきりで、ポカリだけ飲んでて、目が覚めて生きてたときは、うれしかった。
 そんなぼくにも友達ができた。気のいい人たちで、その子たちがいたから大学4年間がたのしく過ごせた。はじめてできたちゃんとした友達って感じだった。みんなとバカやって遊んだり、ゲームセンターにいったり、カラオケをしたり、ご飯をたべたり、授業をさぼってみたり、お酒をのんだり、ドライブしたり、たまに実家に帰ると親や兄弟に「あんた変わったね」って言われて、充実してた。人生ではじめて彼女もできて、思えば楽しい大学生活だった。
 作業療法士の勉強は、職業辞典で読んだのとは全然ちがかった。1年生のときくらいは陶芸とか手工芸とか革細工とかやったけど、それっきり。骨とか筋肉とか神経とかむずかしい勉強ばっかりで、なにこれって感じで、こんなつもりじゃなかったって思う日々だった。高校で勉強には慣れてたから単位自体はなんとかなった。友達もいたし、作業療法士とかどうこうよりも、毎日が楽しくてよかった。
 作業療法士は、身体・精神・発達・老年期って4つの領域から、自分が進みたい道を選べるシステムみたいだった。ぼくは3年生まで精神にいきかった。自分が人よりおかしいって思ってたし、吃音をなんとかしたかったし、人の心に興味があった。大学の在校生インタビューみたいのでも「精神に進みたい」って言ってたけど、その夢はこの先の実習で消え失せることになる。
 作業療法士も理学療法士も、大学を卒業すれば資格がもらえるってわけじゃない。卒業してもらえるのは作業療法士の国家試験をうける『受験資格』だけで、その試験に合格しないと作業療法士免許はもらえない。でも、それよりなにより大変だったのは、大学を卒業するための『臨床実習』に合格しなきゃいけないことだった。臨床実習っていうのは、1〜2ヶ月くらい病院とか施設にいって勉強させてもらって、患者さんと仲良くなってリハビリをして、レポートをつくるっていうめんどくさいやつ。ぼくは人が怖くて嫌いだったし、実習なんか行きたくなくて、でも行かなきゃいけないこともわかってて、どうしようもなく仕方なくいった。
 まずは3年生でいった老年期の実習。茨木県までいった。これは楽しかった。先生たちがリハビリを教えてくれることはあまりなくて、学生が他の学校からも大勢きてて、学生同士で教え合って毎日勉強した。そこのリハビリはぼくらに任されてる気分だった。実習に先に来てた学校の子は学生のなかでも先輩扱いされて、みんなから頼りにされてた。その子の実習が終わる時には、先生がいなくなっちゃうって思って、順番的に次の先生になる人がいたりして、面白いシステムだった。食欲もすごく湧いて、給食が出たから丼ぶり飯にしてものすごく食べまくって、夜にはパンを食べまくって、人生ではじめて体重が増えた。大学に帰ったら「丸くなったね」って言われて驚いた。実習が終わるのがさみしくて、最後の日はみんなにメッセージを書いて夜遅くまで施設に残ってて、本当に名残惜しい実習だった。
 4年生の実習は精神病院。地元の静岡県にある病院で、実家からも通える場所にあった。窓には錆びついた鉄格子がしてあって、まわりは畑だらけで、すごく寂しい場所だった。自分を指導することが多かった男の先生は大丈夫だったんだけど、女の先生がおっかなくて、たまらなかった。もともと女性が苦手だったし、自分の書いてきた文章の少なさや考えの至らなさをねちっこく責められて、毎日の態度も人間性もダメ出しの嵐で、その先生と一緒にいなきゃならない時間は死ぬほどいやだった。なんでこんな意地悪するんだろう。リハビリの仕事してるんだよね?人のためになる職業してるんだよね?って、本気で疑った。一緒に実習してた他の学校の子となぐさめあって毎日過ごしてた。目が原因不明に痛くなってパソコンの画面がみられなくなったこともあったけど、それも何を言われるか怖くて言えずに我慢してた。途中でご飯に誘われたりもしたけど、どうしてもいくのがイヤで勇気を出して断ったら、もっと厳しく責められるようになった。男の先生に相談したら、ちょっとした対処法を教えてくれた。「責められてるときに小さくなってると、もっとひどくやられるよ」「あえて強気に出て相手をびっくりさせて、跳ね返してやるんだ」って言われて、実行したら本当に風あたりが弱まって、先生に深く感謝した。実習が終わったときにはもう晴れやかな最高の気持ちで、二度と精神科なんていくか!アホ野郎!って、就職先の候補から完全に外した。
 就職先は、3年生で楽しい思い出があった老年期にいくってことで決まった。ささっと就職を決めて楽になりたかったから、4年生の夏休みに探しまくった。条件は実家から近いってことと、上司が男ってこと。もう女の先生はトラウマ的にこりごりだった。幸いなことに近所の老健で働いてる知り合いが「うちでリハビリ募集してるよ」って教えてくれて、行ってみたら見事に男の上司で、「ここだ!」って思った。
その上司は作業療法士で、就職したらぼくの直属の上司になってくれる人みたいだった。いろいろ話をしてくうちに、その人の考えがちょっと学校で勉強したきたことと違ってるのがわかって、聞いてて面白かった。「リハビリだけしててもだめ」「生活に入らないとお年寄りのことはわからない」「ここに就職したら介護に入ってもらう」もう気持ちは就職に向いてたから、どんなことでも前向きにとらえられた。介護をやるのにも抵抗感はなかったし、むしろ面白そうだなって思ってた。後日改めて偉い人に面接をしてもらって、内定書をもらった。
就職が決まってからは、国家試験の受験勉強をしたり卒業論文を書いたりしてたけど、どこか手につかないことが多かった。なによりの気がかりは、新しい職場でぼくはやっていけるのかっていう不安だった。なにより自分が喋れないのがすごいネックだったし、こんな自分が働けるのか、こんなぼくが就職して迷惑かけたらどうしよう、こんな声なくなればいいのに、いっそ喉をつぶそうか、こんな自分はだめなんだって、とにかく『この言葉』をなんとかしたくて、鬱っぽくなってた。普通にしゃべれるみんながうらやましくて、わざと友達を遠ざけたり、部屋にこもりきりになってひとり叫んでたり、そんなことをしてる情けない自分がどんどん嫌いになった。
なにか治す方法がないかと思ってインターネットで声について調べてたら、なんだかぼくに似た言葉の病気があるってことがわかった。それは『吃音障害』っていうものらしくて、言葉がどもっちゃう病気らしかった。「これ…ぼくだ」って思って、言葉をうしなうくらい衝撃だった。自分のこの言葉に、名前があったなんて。病気かもしれないんなら、治るかもしれないよね。この声がどうにかなったら、ぼくはなんでもできるぞって思った。
それから吃音のことをたくさん調べた。小さい頃からなる人もいる、吃音だったけど治った人もいる、その人はアナウンサーをやってる、薬とかじゃ治らない、吃音のひとはばれないように隠れて生きてる、吃音を直す矯正器具が高いけどある、育ってきた環境が関係してる、いろいろなことが書いてあって、驚きや嬉しさや不安が渦巻いて、夢中で調べまくった。
そうこうしてるうちに、電話で吃音が治せるっていうカウンセリングがあるのを知って、これならぼくにもできると思って、怖かったけど、その先生も昔吃音で困ってたみたいだったから、この人ならわかってくれるかもしれないと思って、電話カウンセリングを受けることにした。カウンセリングは、まず一番ぼくが恐れていた自分の名前を名乗らなきゃいけない電話からはじまる。電話を持つ手が震えて、電話をかける1時間前からおしっこが近くなって、息が苦しくて、時計ばかり見てた。電話をすると案の定全然じゃべれなくて、言葉が「あ!ああああああ」とまっちゃって、やっぱり言えない、ぼくはダメだってなったけど、先生は黙ってじっくり待ってくれて、ゆっくり、ゆっくり、ゆっくりがダメなら思いっ切り声を張り上げて、無理やり名前を言って、名乗れたあとは言葉が続いた。先生と何度も話をしてくうちに、吃音は治すんじゃなくて、上手に付き合うものなんだってことがわかってきて、吃音を出にくくする方法を一緒に考えたり教えてもらったりした。「あんどう」が言えないなら「はんどう」にしたりして、苦手な「あいうえお」にあるってこともわかってきた。もしこれ以上苦手な言葉が増えたらどうしようって考えたりもした。すこしずつ先生とも話ができるようになってきて、電話の向こうにいる人が知ってる人ならそんなにどもらないってこともわかってきた。でも、やっぱり見ず知らずの人とは喋れなくて、そのたびに自分がだめなんだって思い知らされた。希望がなかったわけじゃないけど、絶望のほうが断然おおくて、落ち込んでた。カウンセリングはそのあとも続けて、だんだん効果もないから先生にやめるって言いたかったけど、それも言いづらくてダラダラ続けてた。
友達を遠ざけて、ひとりで受験勉強ばっかりして、卒業旅行もさそわれたけど無視して、どんどんひとり孤独になっていた。勝手にさみしい奴になっていった。みんな安藤どうした?って心配してくれたけど、吃音のことを言うのもいやで、もうひとりにしておいてほしかったから、へたな愛想笑いをして、そのまま壁をつくって離れた。大学の最期はそうやってさみしく終わった。つらくて、卒業アルバムはひらきたくなかった。

 

【就職前日】
 職場に行く前日、ぼくは神社でうずくまってた。モラトリアム真最中で、就職するのがイヤでイヤで、また自己紹介しなきゃいけないのが恐怖で、いてもたってもいられなくて、子供のころよく遊んだあの神社に1人で来てた。実家は引っ越しをして住所が変わってたから、この神社に来るのはえらく久しぶりだった。
 神社はなにも変わってなかった。森みたいにたくさんの木があって、鳥井は赤くて、小さい賽銭箱があって、スズメがピーチク鳴いてて、参道の横にはもともと住んでた家があって、畑にはレンゲが咲いてて、なんだかすごく落ち着いた。「あー明日からイヤだー。最悪だー。もう主婦になったほうがいい…」どのくらいたっただろう、一台の原付が神社の空き地にとまった。青い服を着て、白いヘルメットをかぶった男の人がこっちを見てた。やばい、警察だった。
 とくにわるいことをしてるつもりはなかったけど、警察は嫌いだった。大学生のときに信号無視と一時停止無視で2回捕まってて、どっちもギリギリセーフじゃない?って思って無実を訴えたけどダメで、ぼく捕まっちゃうの?逮捕?!って思ったけど、罰金を払うだけで済んでほっとした。ぼくも悪人じゃんと思った。それ以来、なんとなく警察はイヤだった。
 そんな警察さんがぼくに職務質問してくる。職務質問なんてはじめてて、すぐ運転免許を出して、なぜか「すいませんすいません!」って必死に謝ってた。緊張と恐怖と焦りと、もうひたすら今の窮状を訴えるしかないと思って、思いっきりへりくだりながら明日就職したくない病のことを打ち明けてた。その警察さんはわるい人じゃなかった。「きみも大変だね」って言って話をきいてくれて、2人で境内に座り込みながら話をした。居心地がわるかったけど、だんだんと打ち解けられて、警察さんが帰るころにはぼくは落ち着いてた。そのまま家に帰って明日の準備をはじめた。ただの現実逃避だったけど、神社に行ってよかったって思えた。その神社は、数か月後に全焼することになる。
 むろん、犯人はぼくじゃない。後々わかったことだけど、ぼくが行くすこし前の日にその神社でボヤ騒ぎがあって、まだ犯人が捕まってなくて、それで警察の巡回経路にあの神社が加わったと。警察さんがいつものように巡回してると、変な若い奴が神社に座り込んでる。…声をかけないわけがない。ぼくは犯人かもって疑われてたわけだ。でも犯人は別にいた。なにやら神社の神主さんとヤクザ屋さんの間でいざこざがあったみたいで、それで本格的に燃やされちゃったみたい。まっ黒焦げ。神社は新しく建て直されて、いまじゃ目新しいきれいな神社になってる。ぼくが知ってるあの神社はなくなった。監視カメラも自動点灯のライトもついてて、ものものしい雰囲気。たまにお賽銭を入れにいくけど、なんとなく、居心地はわるい。

 

【社会人1年目】<2007年(平成19年)23才>
 覚悟は決まった。どうせ逃げられないし、逃げる気はなかったし、いくしかなかった。玄関に入ると先客がいて、その子はぼくと同期になる作業療法士の女の子だった。その子とぼくは、それぞれ一般棟と認知棟に配属されて、面接でした約束とおり、2人とも介護職員として仕事をスタートすることになった。 
 郵便配達とか焼肉屋とかでアルバイトはしたことがあったけど、本格的な仕事ってのはやっぱり緊張して、とにかく真面目に一生懸命がんばらなきゃって思ってた。お年寄りの名前をおぼえて、病気を覚えて、職員さんの特徴を覚えて、仕事のやりかたをおぼえて、ひたすら必死だった。カンペをつくって、家に帰ると一日おぼえたことを頭に叩き込んだ。とにかく毎日職員さんのケツをおっかけて、どんどん「やらせてください!」って夢中になって介護をした。恥ずかしさとか全然なくて、とにかく「はやく一人前にならないと!」って、それだけだった。
 利用者さんは、かわいい人もいたし、面白い人もいたし、変な人もいたし、ザ認知症の人もいたし、認知症っぽくない人もいたし、でもみんなここの利用者さんだったからちゃんとまじめに対応した。いい介護しなきゃ。いい暮らしをしてもらわないと!って思ってた。時間が空くと目の見えないおじいさんの肩をもんだり、おばあちゃんたちと歌をうたったり、なにもしてない時間って手持無沙汰で、過ごすのが苦手で、とにかくひたすら仕事を探して動き回ってた。「安藤くん、もっと落ち着いて」「ゆっくり歩いて」何度か注意してもらえたけど、なかなか直らなかった。
 職員のみんながしてた介護は、正直嫌いだった。はじめはみんなの介護をみても「こういうもんなんだな」って思っておぼえるのに必死だったけど、現場に慣れるにつれて「なんかおかしい」「お年寄りにやさしくない」ってことに気づきはじめた。よだれをたらしたおじいさんを普通に「汚い」って言ったり、重い人を介助するときジャンケンで決めたり、負けると「えー!」ってその方の前ですごくイヤそうにしてたり、「どっこいしょ!」って乱暴にベッドに座らせてたり、そんなんじゃ圧迫骨折しちゃうって焦ったり、えらい人がいないとレクをさぼってやらなかったり、職員同士で子供の話でワンヤワンヤ盛りあがりながら食事介助してて、おばあさんは普通にムセせたり、なんだか…こんなもんかって。これが介護かって、ここはこんな所なんだって…すごく残念な気持ちになって、職員さんたちのことがどんどん嫌いになって、その気持ちが職員さんたちにばれると嫌われちゃうのがなんとなくわかったから、「あはは」って愛想笑いしてた。心のなかじゃ「ふざけんな」って思ってた。
月に1回あるケアの話し合いじゃ、紙に書いてケアの改善点とかの意見を出し合う。ぼくは日頃思ってた介護のダメなところを山のように書いて出した。表側だけじゃ足りなくて、裏側までびっしり書いて、「よし!書いてやった!」くらいの気持ちだった。そうしたらえらい方がそれをみんなに出す前に見てくれてて、神妙な顔で「安藤くん、これはみんなには見せられないよ」って言ってくれて、ぼくは理由がわからなかった。みんなに見せられそうなやつだけを話し合いでみんなに見せたとき、みんなはシーンとなっちゃって、「これ、だれ書いたの?」って言うから、ぼくは「やばい、絶対責められる」って思って、ひたすら下を向いてた。その場から逃げ出したくて、書かなきゃよかったってひどく後悔した。
職員さんの中にはどんな利用者さんにも『ちゃん付け』をするベテランの人がいて、ぼくはそれが前々からずーっとずーっと気になってて、もう我慢できなくてついに爆発しちゃった。風呂介助中にもかかわらず、その人に怒鳴った。もう次から次へと怒りがこみあげてきて、自分は利用者さんの代弁者だって感じで怒った。…それがいけなかった。ぼくはそのベテランさんから無視されるようになって、だんだんまわりの人たちもよそよそしくなった。
一気に仕事がいやになった。その人がいるのが、すごいストレスだった。その人と勤務が一緒だと落ち込んで、勤務表が配られるたび、一緒の日を見つけてはタメ息をついた。一日が終わるとカレンダーに×印をつけて、はーっとため息をついて、職場にいくのが本当に憂鬱な毎日だった。体も正直で、食欲がなくなって、帯状疱疹になって、盲腸になって、目が痛くなって、夜眠れなくて、もう、ここをやめようって思った。やっぱりぼくには無理だったんだって。こんなぼくにまともな仕事はできないんだって。
でも、やっぱり介護自体はたのしかった。職員さんたちとのかかわりは相変わらずな感じだったけど、お年寄りと過ごしてる時はたのしかった。自然な笑顔になれた。トイレも、お風呂も、オムツ交換も、機械浴も、レクも、ただの雑談も、お年寄りはいつもやさしかった。いい介護をすると、ありがとうって言ってくれて、「ぼくはこの人たちのためにがんばろう、いい介護をしよう」って思った。あとうれしかったことに、介護の一番えらい人はぼくのことを無視しなかった。ぼくが介護で相談したいことがあって休憩時間中に押しかけても、迷惑そうな顔はしたけど無視は絶対しなかったし、ちゃんとわるいことは叱ってくれた。リハビリの上司もぼくのことをわかってくれて、落ち込んだときには相談にのってくれて支えてくれた。素敵な介護の姿が書かれてる本にも巡り会って、介護ってこんなすごい仕事なんだなーって感激して、そんなかんやで、毎日をなんとか繋ぎ止めながら、介護してるときも静かに黙って出しゃばらなきゃいいんだってことに気づいて、隠れるように目立たないように、コソコソやりたいように介護して、一日一日やり過ごしながら、気がついたら、桜が咲くころになってた。やりきった!と思った。

 

【社会人2年目】<2008年(平成20年)24才>
 介護は1年間の予定だったけど、現場に人がいなくて、どうやらこんなぼくでも人数として役立ててたみたいで、もう少し介護を続けられることになった。みんなとそれなりにうまくやる方法もわかってきてて、相変わらず無視されたりもしたけど、仕事には慣れてたから、介護を続けることは苦じゃなかった。むしろ、そのあと本当に介護の期間が終わったときにはさみしい気持ちと、これからどうすればいいのかよくわからなくて、不安だった。
 介護からリハビリに戻って、リハビリの先輩のもとで本格的にリハビリの仕事をはじめることになった。でも、ぼくは相変わらず毎日のようにトイレに入って、オムツを変えて、食事介助をして、いままで通りに介護してた。なにをしたらいいかわからなくて、介護が人がいなくて大変ってことは身に染みてわかってたから、介護さんたちもなにも言わなかった。「ありがとうね〜」って感じ。
 唯一注意してくれたのが施設ケアマネさんだった。ぼくが書くリハビリの計画書は介護のことばっかで、リハビリのリの字もなかったから、「これじゃ介護の計画書だよ」って言われて、ショックだった。なにが介護でなにがリハビリなのか、よくわからなかった。リハビリの専門性って言ってくれたけど、専門性ってなんなのか、リハビリってなんなのか、全然わけわっさんだった。
 お年寄りは生きてるし、リハビリがなくても元気だし、トイレでちゃんと立ててるし、車いすにも座ってる。ご飯も食べてる。元気がないひともいるけど、もういい年だし、わるくなるのは当たり前だし、わざわざリハビリでがんばって立って、何になるの?毎日座ってるのになんで座る練習するの?なんでフロアでリハビリしないで、見慣れないところでリハビリするの?不安がってるじゃん。「大丈夫だよ」って、大丈夫じゃないんだよ。リハビリって、違和感がありすぎて、よくわからなかった。とりあえずケアマネさんに怒られないようにそれっぽく書いておいたけど、リハビリは意味不明だった。自分がリハビリ職員であることが、どうにも受け入られなかった。
 先輩の仕事を手伝ってるときは、自分は作業療法士だった。先輩は学校ではじめのころ習った通りの、いわゆる作業活動をやってた。塗り絵を渡したり、計算問題を配って丸つけしたり、ちぎり絵をやってもらったり、習字を準備したり。塗り絵で全部同じ色に塗るおばあさんを「きれいですねー」って嘘をついてほめてみたり、ぐちゃぐちゃに書いた字を「うん、力強い」って愛想笑いしたり、そんな自分が心地悪かった。つかれた。ぼくは介護をやってるときにその先輩のリハビリ風景を見てて、なんだか遊んでるように見えて、みんなが「リハビリは楽でいいよね〜」って影で言ってるのも知ってて、ぼくは自分もそう見られるのがイヤで、作業をやってるときは自分がわるいことをしてるような気になってた。こんなことしてていいのか、すごく疑問に感じてた。実際お年寄りも「目がわるいでいいにするよ」とか「手が痛いからうまくできない」って言う人が多くて、それを説得しながら、ごまかしながらなんとかちょっとでもやってもらう日々で、「みんなやりたくないのに、なんで年をとってまでこんなことやらせなきゃいけないの?」って、だんだん嫌悪感が大きくふくらんできた。お年寄りがつくった作品をお年寄りがいないところでこっそり直したりして、時間がかかって、その間はお年寄りにかかわれなくて、「この時間、なに?」「ぼくこんなことしにここにきたの?」この退屈な時間も、みんなは現場で介護してて、お年寄りを守ってトイレにいって、必死にやってるのに、こんなことしてていいのかなって…はやくみんなに会いにいきたかった。
 そして、ぼくはまた爆発した。先輩と言い争いになって、先輩にひどいことをたくさん言った。こんなの意味がないとか、もっとお年寄りの喜ぶことがしたいとか、時間のムダとか、ちゃんと仕事をしましょうとか、日頃思ってたことをたくさん言ってしまった。でも、あんまり後悔はしてなかった。自分がわるいとは思ってなかったし、お年寄りのためにも言ったほうがいいと思ってたし、とにかく、もっといいことがしたかった。それからぼくは作業活動をやらなくなって、小さい集団をつくって体操をしたり、相変わらず介護をしたりして過ごして、間もなくして、ぼくは病院に異動することが決まった。
 施設の母体の病院が作業療法部門を新しく立ち上げるって話になってて、ぼくに話がまわってきた。先輩とこんなことになっちゃったし、離れられるならそれでもいいかなって、新しい環境で心機一転もいいかなって、上司が言うことだったし前向きに「いきます!」って答えた。作業療法士が1人じゃ少なかったから、新しく2名作業療法士を募集して、合計3人体制で立ち上げる予定だった。
でも、最終的に異動することになったのはぼくじゃなくて、先輩になった。一緒にいく予定だった2名の作業療法士の話もなくなった。なんでぼくじゃなくなったかって、もしぼくが病院にいってたら、かなり高い確率で騒ぎを起こす。寝たきりの人を車いすに座らせたり、オムツの人をトイレに連れて行ったり、抑制ベルトを外そうとして、大暴れして、大きな問題になる。誰かと喧嘩する。それは非常にまずい。新しく来る作業療法士がそんなことをしたら、作業療法部門がおかしくなる。いわゆる作業療法士らしく働ける先輩のほうが向いているっていう判断だった。妥当だったと思う。ぼくは病院にいく!って燃えてたし、いくからには喧嘩してでも病院を変えてやるんだ!って意気込みだったから、絶対誰かと対立してた。ぼくはそんな方法で仕事してくことしか、しらなかった。
 結局、認知棟のリハビリはぼく1名と、病院にいくはずだった2名のうち1名とでやることになった。そして、三度ぼくは失敗した。新しく入った作業療法士の子がいたんだけど、ぼくはほとんど放置してた。自分の勉強は自分でするもんだし、現場に入って必死にやれば勝手にどんどん覚えていくし、ぼくはそうやってきたし、ほうっておいた。一年後、その子はまったく成長していなくて、上司に怒られた。怒られて、やっと気づいた。「あ、これってぼくの責任だったんだ」って。ふかく反省した。ぼくは自己中だったから、自分がよければそれでよくて、その子のことは考えてなくて、好きにやってくれればよくて、どんどん自分で学んで成長してくれればよくで、その考えがわるかった。結局その子はぼくにはあずけておけないってことで、上司が直接面倒をみることになった。その子には本当に申し訳ないことをしたと思っていて、それ以来あんまりかかわりたくなくなった。自分のせいってしっかりわかってて、顔をみるたびつらかった。ひたすら申し訳なかった。

 

【社会人3年目】<2009年(平成21年)25才>
 ぼくは1人で認知棟をやることになった。自業自得。でも、正直やりやすかった。ぼくは自分勝手だったから、だれかと一緒にやったらまた傷つけちゃう。自分ひとりなら好き勝手できるし、その結果なにかあれば自分のせいだし、ひたすら一生懸命結果を出してがんばればいいし、気が楽だった。こんな自分じゃだめだって心のなかじゃ思ってたけど、仕事は快適だった。
 とりあえず、やりたいことは山ほどあった。車いすに座ってて傾いてる人とか、すべりおちそうな人が多かったからシーティングを勉強してなんとかしたり、現場で「こういうのをつくって」って依頼があればとにかく全部引き受けてミシンを持ち出してつくった。認知症の人がほぼだったから認知症ケアの資格をとって、ベッドとか車いすとかの大切さが身に染みてたらか福祉用具の資格もとった。先輩とやってた作業活動は全部やめた。唯一残したのが、お年寄りがたくさん笑顔になってくれるレクの体操。これは週2回ずっとやり続けることにした。それと、たまにしかやってなかった料理はすごく喜ばれるのを知ってたから、もっとやりたくて週1回に増やした。しかも、リハビリの部屋でやるとどうしても小人数になっちゃって、参加できなかったお年寄りに申し訳ない気がしてて、フロアでやることにした。体操と料理以外はすっぱりやめた。
そうしたら、しばらくたって介護さんたちが自分たちで計算問題を渡したり、塗り絵をくばったりしてくれはじめた。ぼくはそれを印刷して準備すればいいだけの役になった。「なんだ、やらなければみんなやってくれるんだ」ってすごくびっくりして、お年寄りはあの頃と変わらず同じようにやってて、リハビリがやっても介護さんがやっても結果は変わらない、ますますリハビリなんていらないじゃん!って思った。やめてよかったって心底思った。
ぼくは現場で求められることにはとにかく全部応えていって、一時は引き受けすぎて苦労したこともあったけど、これをやらなきゃ自分がいる意味なんてなかったし、全部やりまくった。リハビリはみんなが困っていることをやればいいんだなーなんて考えてた。
 みんなが困ってるなかでも、特に声が多かったのが「もっと上手に移乗する方法ない?」「腰を痛めないやり方教えてくれない?」って介護技術の方法を知りたいっていう訴えだった。現場じゃ力まかせのドッコイショ介助が多くて、みんな腰を痛めてたし、ぼくも体中が痛くてマッサージに通ってたし、その分野にはもともと興味があったから、それを徹底的に学ぶことに決めた。
 もともと休みはほとんど勉強会に使ってて、新人のころから月に4回とか普通に東京・名古屋にいってたから、勉強は苦じゃなかった。むしろ楽しくて、勉強会にいくことが毎日のモチベーションにつながってた。どんどん新しい知識を覚えちゃ現場で試して、講師の先生には「すぐ現場でやらないように」「しっかり練習してから」なんて言われてたけど、練習相手もいなかったから、お年寄りにどんどん協力してもらった。そんなことを繰り返してたら、いつの間にか介護技術が上達してた。いままでにないような新しい介護技術も覚えることができて、ぼくは得意だった。みんなはやらないような方法だったから、現場でやるのはベテランさんとかに嫌味を言われそうでいやで、隠れながらこそこそやってた。
 でも、チャンスが巡ってきた。勉強会を主催してる委員会からぼくの介護技術を勉強会で伝えてほしいって依頼がきて、これはいい機会になると思って、それから何度も勉強会を開いて新しい介護技術をみんなに伝えた。みんなの前で伝えるのは恥ずかしかったし苦手だったけど、伝えたい気持ちが強かったから、ドモリながらもがんばった。
 でも、結果は全然ついてこなかった。現場で使ってくれるひとはあらわれなくて、熱心な新人さんが覚えてくれて現場でつかってくれてる姿を見たときはすごくうれしかったけど、結局ベテランさんに「あなたその方法なに?」って注意されてて、やらなくなってた。それでもあきらめずに伝え続けたけど、あるとき糸がぷっつり切れて、「もう、どうでもいいや」って思った。みんな教えてっていうけど、口ばっかり。伝えてもどうせやらないし、変わらないし、時間がもったいないだけ。腰わるくすればいい。みんなのことがまた嫌いになって、現場がつまらなく感じた。
 それでも勉強だけは続けてた。休みになると勉強会にいって、介護技術だけじゃなくてそのほかのリハビリとか看護とか、必要そうなものはとにかく学んでた。現場で下がったモチベーションを勉強会で立て直して、勉強会にはぼくよりもっとやる気がある人たちがたくさんいて、みんながんばってやってて、ひとりじゃないんだな、がんばってる人がいるんだなって勇気をもらってた。たまに熱すぎる人がいて、やる気がありすぎるのも迷惑なもんだなって気づかせてもらった。
 そんななか、出会ったのがキネステティクス。横浜で勉強会をやってて、3日間もある長い勉強会だった。まったく聞いたこともない内容だったから、興味本位で上司にも話をしてみて、一緒にいくことになった。会場にはマットが敷き詰められていて、なんだか普通の勉強会とは違う雰囲気。「あれ?ここ大丈夫かな…」って思ったけど、はじまったらわけがわかった。ゴロゴロねたり、目を閉じて歩いてみたり、体験がすごく多い。先生に言われたように体を動かしていくうちにどんどん先生がいうことが理解できてきて、時間があっという間にすぎて、時間がすぎちゃうのがすごくもったいなく感じて、もっともっとこれを勉強したいって思った。人と触れ合うとすごく心があったかくて、やさしい気持ちになれて、ほんわかして、気持ちよくて、「ああ、介助ってすごいな」「やさしい介護ってあるんだな」って、このときはじめて思った。自分はいままでなにをしてきたんだろう。そういえば、お年寄りの顔もちゃんと見てなかった気がする。あの人は笑ってたのかな、泣いてたのかな、なにを伝えてくれようとしてたんだろう。そんなことを考えることすら、これまではできてなかったことに気づいた。ひどく申し訳ないことをしてきたと思った。
 ぼくは介護っていえば、どうやってお年寄りを上手に動かすのかってことばっかり考えてたから、介護がこんなにあたたかいなんて気づかなかった。知ってたつもりだったけど、わかってなかった。キネステに出会えて、先生に気づかせてもらって、介護ってものが変わっていった。先生が言った「お年寄りをテクニックの対象者にしてませんか?」って言葉が、ズキンときた。その通りで、図星で、ぼくです申し訳ありませんって思って、深く反省した。キネステにはそれから何度も足を運んで、そのたびに新しい発見があって、また次にいくのが待ち遠しくなった。学ぶってこんなに楽しいんだって、心から思えた。こういう世界に巡り合えて、本当に運が良かったって思った。

 

【社会人4年目】<2010年(平成22年)26才>
キネステを学んだうえで現場をみると、現場がちがってみえた。キネステが自分にはいったことで、はじめはしっくりこなくて、これをどうしていったらいいのか戸惑って、また元通りの介護に戻りそうなこともあったけど、だんだんと先生が伝えてくれようとしてたことが感じられてきて、体になじんできた。「こういう感じなんだろうなぁ」って、テクニックだけじゃない介護があるんだって、なんとなくわかってきた。『ここ』なんだって。この手がなにをその人にするかが大切なんだって。感覚でしか表現しきれない、数値とか目に見えるものを超えた世界があるんだって。
 だんだん考え方にも余裕ができてきて、勉強会じゃみんなにテクニックばっかり伝えてきたけど、別にそんなの大したことないんだって。みんな十分いい介護しているし、テクニックを変えるのってすごく大変なことだし、お年寄りはそんなにイヤそうじゃないし、たとえテクニックはそのままでも別にいいんだって、現場を肯定できるようになってきた。もしぼくが伝えられることがあるとすれば、もうテクニックじゃなくて、みんなが慣れ親しんだ介護をさらに輝かせる、ほんのちょっとした工夫だけだなって。そういうことならいずれ伝えたいな〜って思ってた。
 ありがたいことに、再び勉強会をやれるチャンスがめぐってきた。今まではベテランさんたちにも勉強会をやらせてもらってきたけど、もう失敗して傷つくのがいやだったし、自分の介護に慣れ親しんだ年月が長いほど今を変えるのはしんどいって感じてたから、ベテランさんたちを対象にした勉強会はやめにしてもらった。かわりに、まだ介護をやりはじめて間もない人たち、現場に染まっていない若手の人たちを対象にやらせてもらった。もうテクニックはいいにした。もしテクニックをやるにしても、健康なぼくら同士でやっても結局だめ。身についても現場に活きない。まじで教えたい場合は、直接現場にいってマンツーで家庭教師みたいにやらないと使えるものにはならない。それより、ぼくが伝えたいのは、介護の根底にあるような部分、触れる大切さとかあたたかさを感じてほしいと思った。現場で具体的になにかが変わらなくても、ひとりひとりの介護する人の心になにかが起これば、それは十分大切な成果に思えた。
そんな想いがつまった若手向けの勉強会は大成功。勉強会後のアンケートはぼくが伝えたかった言葉であふれてて、ひとりでアンケートを抱きしめてた。これまでのテクニック系の勉強会でもアンケートには「よかった」って言葉があったけど、そんなの意味がない。自分が勉強会で感じたみんなの表情、顔つきとかがすべてだなーって、充実感でいっぱいだった。こういうことでいいんだなって、心の深い部分で感じてた。

 

【社会人5年目】<2011年(平成23年)27才>
 それからも現場でキネステの要素を探しまくって、しっくり感はさらに増した感じだった。そんな矢先、もともと地域でセミナー講師をしてたリハの上司が「安藤くんもセミナーやってみない?」って声をかけてくれた。上司は介護技術をよその施設で働いている人たちに教えてて、すごい人で、ぼくも勉強会に何度か助手としてお邪魔させてもらたことがあったけど、あの場に自分が立てるのかどうか、すごく不安だった。でも、すごくやってみたかった。しばらく悩んだあと、「どうなるかわかりませんが、めちゃくちゃになるかもしれませんが、やりたいです!」って言って、上司はめちゃくちゃは困るけど…って言いながらチャンスをくれた。
 はじめてやらせてもらえたセミナーは、大大大成功だった!ものすごく緊張してどもりまくったけど、みんなあたたかくて、笑いにあふれてて、ぼくは自分が現場でやってることをみんなに伝えられて、それをみんなウンウンって聞いてくれて、拍手で終わることができて、幸せすぎる瞬間だった。主催してくれた方も「いやー安藤さん、時間があっという間でしたね」って言ってくれて、確かにあっという間の時間で、もう放心状態だった。
 それからも何回かセミナーをやらせてもらう機会をもらえて、毎回緊張したけど頼まれたことはしっかりやるって決めてたから、毎回内容を練りに練って、自分なりに精一杯やらせてもらった。がんばらなくても、自然とがんばれた。失敗して後悔することもあたけど、セミナーをやめる気はなくって、「次はもっとこうするんだ!」「ここをこうしたらうまくいくぞ」って前を向けた。求められたことに応えるってこういうことなのかなって、体感してる感じだった。いままで人が怖くてしっかりかかわれてこなかった自分、人前で話すなんて考えられなかった自分、でもセミナーじゃそんな自分がみんなの前で話せてて、受け入られてれる感じがして、心の底から、よろこびを噛みしめてた。セミナーはぼくにとって、夢見ちゃいけないような、ずっと昔から願ってきた「人とかかわりたい」って夢が叶ってるような、なんともいえずに満たされる時間だった。
 勉強会後のアンケートにあった「新しいチャンネルで介護してるみたいだった」「今までにない感覚を感じた」って言葉が目にとまって、「あ、伝わってる」「ぼくもキネステのときこうだった」って思って、それまでセミナーの名前はふんわり決めてだけど、『新感覚介助』って名前に決めた。なんだか恥ずかしかったけど、あんまり目にしないネーミングが誰かの目にとまって「面白そう」と思ってセミナーにきてくれれば、いいセミナーをやる自信はあった。たくさんの人に伝えたい気持ちであふれてた。

 

【社会人6年目】<2012年(平成24年)28才>
 職場に突然電話があった。全然知らない人で、あやしいなぁと思ったけど、話をきくとなにやら出版社の編集者の方で、ぼくに介護の雑誌で連載をしてみないか?って内容だった。「え?ぼくが連載?」よくわからなかった。よくよく話をきいてみると、介護技術の話で連載が書ける人を探してて、ネットでぼくが去年やった新感覚介護のことが載ってたみたいで、それを見て面白そうってことで連絡をくれたらしい。こんな縁もあるんだ。驚きとうれしさで、その場で「こんなぼくなんかでよければぜひやらせてください」って言った。
 新感覚介助ってネーミングがこんなことにつながるなんて、びっくり。そのあと編集者の方に来てもらって詳しい話をしてもらって、ぼくがやってるセミナーのことを話して、でも言葉にすることはむずかしかったからニュアンスだけ伝えて、これが果たして文章になって雑誌にのせることができるのは不安だったけど、やりたい、もしかしてどこぞの先生たちみたいに有名になれるのかもしれない!これはチャンスだ!と思って、がんばることにした。
 それからは毎朝早起きして文章を書いた。文章を書くってこんなに大変だったんだ。世の中の本を出してる人たちってすげーって尊敬した。ただ書くだけならなんとでもなるけど、それを読んだ方に内容が伝わらないといけない。しかもセミナーじゃ感覚的にやってるから、それをひとつひとつの言葉にしてくのがえらい大変で、書いてることと言いたいことがしっくりつながらなかったりして、頭がパンクしそうだった。繰り返し繰り返し書き続けて、はじめて雑誌が手元に届いたときは、感動で胸がいっぱいだった。うわー、マジできちゃたーって。自分が書いたなんて思えなくて、でもこれは立派なことなんだ、よくやったぞって思って、ひたすらうれしかった。

 

【社会人7年目】<2013年(平成25年)29才>
 「雑誌を見ました」って方から電話がきて、セミナー依頼をもらえた。しかも千葉県!「おお、遠い!まるで講師みたいだ!」いままで近場での開催がほぼだったから、すごく楽しみだった。「雑記を書くとこんな縁ももらえるんだ!雑誌効果すげー!」遠方にはそれから何度かいかせてもらえて、まだ未熟だったぼくは主催者の方に意見をもらいながら「セミナーの勉強」をさせてもらうような感じでチャレンジさせてもらった。もっともっとたくさんセミナーをやりたいって欲がでてきて、話がもらえれば二つ返事で迷わず引き受けた。
 そのうち、誰かの依頼を待ってるよりも自分からも行かなきゃって思って、自分が通ってた学校のそばにあった公民館に「セミナーやらせてもらえませんか?」ってお願いしにいった。でもそっけない態度で、前向きな感じはなくて、すごく残念だった。「やっぱ公務員だわーもう、残念すぎるわ」って思った。変な売り込みにみられたみたいだった。
でも、最終的には館長さんのご厚意でやらせてもらえることになって、やれたときはうれしかったー。ただ、実際にやってみると、話を聞きにきてくれるのは自宅で実際に家族の介護をやっている方々で、ぼくがいままで伝えてきてた職員向けのセミナーとはえらく感じがちがった。すごく身につまされる話が多くて、つらそうで、差し迫った問題で、自分がやってたことの甘ちょろさを思い知った。自分の未熟な知識や心じゃ、家族さんの介護は受け止めきれない。介護って、いろいろあるな…ぼくが知ってる介護は施設に住んでる人たちだけで、家族の介護はぼくらよりも何倍も抱え込んでて、苦しんでて、本当に困ってて、ぼくはなにもできないんだって、切なかった。ぼくはまだ施設で介護をしてる方に自分のやってきたこととか、考えてることを伝えるのをやっていく段階だなって思った。
 もらえるセミナーの話は介護技術だけじゃなくて、シーティングとかメンタルケアとか認知症ケアとか、いろいろあった。ぼくが不得意な分野、必要性を感じてない分野もあったけど、断る気はなくて、それを伝えるために徹底的に勉強し直して、全力で応えた。自分がいままでいろんな勉強会にでてきて、正直「え?なにこれ…つまらすぎる」「まじ金かえせ!」って勉強会もたくさん見てきた。こんなのに時間をさいて、お金をつかって、ふざけんなよって思うのもあった。残念な先生を見るたびに明日への元気を吸い取られてる感じで悲しい想いをしてきたから、ぼくは絶対受講生に一生懸命伝えるんだって、下手でもなんでも100%でやるんだ!って、自分は来てくれたかたに喜んでほしいんだって!毎回必死だった。
 でも、わかってきたこともあった。100人いたら、100人が「最高によかった!」って思うセミナーは、どんなにスーパーな努力をしても難しい。ぼくよりずっと高名な先生がやっても、限界があるんだって。難しいなんて思いたくないけど、100人がよろこぶことを願うと、苦しくなる。99人まではいけるかもしれないけど、絶対的に1名には響かない。それがわかってきた。でも1人だけしか喜ばないセミナーはやりたくなかったし、いいセミナーにするぞ!ってスタンスは変わらなかった。アンケートをとって自己満足したりもしたけど、自分がやるセミナーの大切なところは受講中のみんなの様子だったから、そっちのほうが大切で、だんだんアンケートはとらなくなった。みんなが喜んでくれれば、それが大切な答えだった。
 セミナーをたくさんやって、いろんな出会いがあって、なかには「うちに来ない?」って話もあって、うれしくて、かなりゆらいだ。なんだか職場での仕事がたのしくないときもあって、現場に悩んでて、外でセミナーをやってるとすごい充実感で、こういうことをたくさんできたらいいな〜って思えた。…それで職場にはいろんな迷惑をかけることになったけど、結局ぼくには現場が必要で、いまいるじーちゃんばーちゃんと離れたくなくて、二度と会えなくなるのは御免で、同じようなセミナーだけ生涯やり続ける生活なんてとてもじゃないけどできなくて、このままこの職場にいることを決めた。でも、一度やめるって決断があったから、やっぱりここにいるって決断もできたんだと思うと、救われてる気もした。一連の出来事に、感謝した。
 それまでもやめたくなった瞬間は何度もあって、ユニットケアに憧れて他の施設に実習にいかせてもらうこともあったけど、そこでも暇そうなお年寄りはたくさんいて、職員の質もそんなに変わらなくて、「どこもいっしょじゃん!」って気づいた。いろいろあってここにいることを決められたけど、結局自分は勇気がない奴だった。新しい世界に飛び出すのが怖くて、怖気づいて、ここにいることをなんとなく幸せに感じる瞬間があって、それでいいとしてやり過ごすけど、また幸せを感じられなくなったら飛び出そうとして、きっとこれからも繰り返すんだろうなぁって思った。上司には幸せの青い鳥の話をよくしてもらって、友達には「安藤さん毎回やめる話だね」って言われてショックで、自分ってホントにめんどくさいやつだって思った。

 

【社会人8年目】<2014年(平成26年)30才>
 施設で仕事しながら外でのセミナー活動を続けてた。まわりは休みを削って大変じゃない?って心配してくれたけど、全然平気だった。むしろ、外がなかったらぼくはたぶんまたダメになってしまう。ここがイヤになってします。だから、このくらいが丁度よかった。外でセミナーをやることも、ひいていは職場のためになるといいなと思いながら、どちらにも力を入れていきたいと強く思った。
 職場は落ち着いてたし、もう何年もやってきてルーチン化してる部分も多かったから、あとは現場でいい介護を続けていくだけで、みんなが笑って暮らしててくれれば安心だった。なにより現場のみんなががんばってた。一時期はみんながしてる介護がだめに見えたこともあったけど、キネステがきっかけでみんながしてる介護を肯定できて、いいなって思えて、そんなみんなが現場を守ってくれてるから、ぼくは安心だった。とくに輝いてがんばる子もでてきていて、この子たちにまかせておけば大丈夫だって思って、ぼくはみんなの邪魔をせずに、必要なときはすぐに対応できるように、リハビリの仕事はきちんとやりながら、つかずはなれず、そんなスタンスで仕事していた。
 セミナーはもっともっと成長の余地があった。もっともっといいセミナーにしたかった。本格的にセミナー講師としての勉強もしなきゃって思って、セミナー講師のためのセミナーにも通った。会場はすごい人たちだらけで、本を書いてる人や社長さんやお医者さんや、ぼくはちっぽけで、萎縮した。また自己紹介しなきゃいけないこともあって、でも名刺を先に渡してみたり、紙に名前を書いておいたりしてなんとか乗り切っていた。カリスマ講師と呼ばれる人にも出会えて、自分らしく輝くことが社会のためになって、自分も幸せになって、介護ってお年寄りのためじゃなく自分のためにもしてるんだなぁって、もっとみんなにも自分らしく輝いてほしいなぁって、介護技術だけじゃなくて、もっと人生にも食い込むような話ができたらなぁって思うようになった。

 

【社会人9年目】<2015年(平成27年)31才>
 おどろいたことに、本を出版できることになった。信じられない。介護の雑誌で連載させてもらえたことがきっかけで、編集者の方がいろいろと企画を頑張ってくれてて、一時はだめになったけど、奇跡の大逆転劇で本という形がとれることになった。ありえないことで、こんなことは神様がちょっと人を間違えたんじゃないのかって思って、でも現実で、大きなチャンスで、よろこんでやらせてもらった。
 また早起きの生活がはじまった。毎朝4時くらいには起きて、寝る時間をだいぶ遅くして、連日連夜本を書いた。毎日毎日書いてて、もう一体なにをいま書いてるのかよくわからなくなって、逃げ出したかったけど、ここを乗り越えば本が出せるぞって自分を鼓舞して頑張った。いい感じに書けたと思って寝たら、次の朝見てすごく変な文書で全部消したり、そんなことをずっと繰り返してて、最後の原稿をメールで送ったときには、天に向かって無言で(早朝だった)両手をガ!っと振り上げた。やったぞー!やりきったぞー!もう二度とやらない!でもやりたい!って。
 それからもデザインとか写真とかいろいろやって、完成したものが手元に届いたときには、部屋のなかを本をかついで走り回ってよろこんだ。こんなにうれしかったのは、大学に合格したとき以来だった。本ってペラペラ何気なく見てきたけど、こんなみんな苦労して書いてるんだなーって、本に感謝した。書店に並んでるのをみるとやっぱりうれしくて、お世話になった出版社のためにもたくさん売らなきゃなーって思って、セミナーで話をさせてもらったりした。ひとつ大きなことをやり遂げた感じで、自分の人生の区切りがついた気がした。昔のことは昔のこと。もういま歩いてるステージは本を書き出したころとは違うから、本はあったけど自分のものじゃないような、不思議な感じがした。

 

【社会人10年目】<2016年(平成28年)32才>
 本がきっかけでまたセミナー依頼をもらえるようになって、うれしかった。ぼくはもっと欲張りたくて、カリスマ講師の先生に学んだことで、もっとネットを活用して自分を広くしってもらうスタイルを実現させたかった。ぼくはスマホとか嫌いでずっとガラケー使ってるくらいパソコンとか苦手だったから、だれかの力を借りようと思った。ぼくはやりたいセミナーをやって、パソコン関係はパソコンが大好きな方にまかせて、お互いにウインウインの関係で進んでいけるような、そんな人が…身近にいた。超ラッキーだった。その方と一緒にホームページをつくって、メールマガジンを書いて、みんなに配れるようにこれまで学んだ知識や技術をまとめた紙のプレゼントをたくさんつくった。そして、こういう人生の棚おろしもして、いままでやりたくないこともやりたいことのように振舞ってやってきたけど、もう少し自分がしたいことも自分にさせてやろうって“いま”これを書きながら思ってる。

 

【あとがき】
 書いてみておもったけど、結構苦しかったはずなのに、書いてみると大したことないように思えて、でも、実際苦しかったよ。記憶なんて過去のもので、忘れてるものが多いけど、わるいものはしっかり残ってる。いらないのに、残ってる。いらんわー。でも仕方ないし、昔があるから今があるから、今を捨てたくないから、過去も愛してるけど。
 書いてみるとぼくは、昔から怖がりだった。親に怒られたり、先生に叱られたりするのが怖くて、いい生徒やいい子供あろうって思ってきた。まじめすぎたのかな。教えられてきた正しいことを守るのが正しくて、間違ったことはしちゃいけなくて、間違ったことをしてる人たちはダメな人で、そんな価値観を、ずっとずっとずーっと、小さいころからもってたんだって。いまでも思ってるよ。間違ったことはしないほうがいいって。しちゃいけないわけじゃなくて「しないほうがいい」ってくらいにやわらいだけど。まだまだ未熟だ。人生に押しつぶされそうになる。生きることにくじけそうになる。森山直太朗さんの歌にあった、生きてることが辛いなら〜ってフレーズが染み渡る。
 はぁ…付き合っていくよ。こんな自分で、実際ここまでこれた。苦しかったけど、そんなに不幸じゃなくて、自分は不幸だって思うことでも、人からはうらやましがられたり、人生ってこんなにも複雑。こんなことをつらつら書くのが自分のやりたいことだから、書いたことは自分にとってよかったと思う。うん、よくやった。やりたいことをやれてよかったとマジで思う。こんな自分とこれからも、まだきっと長く、付き合っていくんだと思う。こんな考えも、またきっと変わって、過去も少しずつねつ造されたりしながら、まだ生きていく。生きるって、めんどくせー。でも、生きなきゃいけないから、もうすこし自分と付き合っていこうと思う。たぶんきりがないから、今日はここまでにしとくね。もしこんなのを読んでくれた方がいたのなら、貴重なお時間をもらってしまったね。ありがとう!勝手に大感謝!